R4.11.11  池田市の歴史と文化を学ぶ②

                                   講師 池田市生涯学習推進室 高野 弥和子 氏

 

〇 国人(こくじん)

  ・在地の有力者。経済力と武力を持つ。 

  ・当初は小さな単位であり、京都公家や幕府から依頼を受けて農作物を育てて藩主に納めていた。その後、権力者が力をつけ戦闘に使う馬

   を育てた。

  ・国人同士の小競り合いも生じ、三好長慶も元々国人からの戦国大名であった。

  ・池田市近郊では、池田氏、伊丹氏、塩川氏(能勢町)等が存在。

  

 〇 池田城

摂津池田氏は池田城を本拠として清和源氏の流れをくむ。

  ・1415世紀では室町幕府管領職の細川家の配下となり、その時の城主池田充正の時が一番盛り上がった時代であり、応仁の乱にも参戦

   している。

  ・池田城は、応仁の乱が始まってから2年後の1469年、1508年、1531年の計3回も落城している。発掘調査時に焼土や食器などが出

   てきている。

  ・その後、1568池田勝正の時に織田軍の攻撃を受けて落城した。しかしながら、池田勝織田信長より6万石を賜って家臣となり、

   池田城も大規模な曲輪を設けるなど城域を拡張した。その後、城内で信長につくか三好に付くかで内紛が起こり、衰退していった。

  ・信長は、伊丹親興池田勝正和田惟政を摂津守護に任じ、摂津は「三守護時代」となる。荒木村重が有岡城(伊丹城)を居城として摂津

   一国を領するようになり三守護は没落した。

 

〇 連歌(れんが)

  ・国人の遊び、楽しみとして連歌(=詩歌文芸の一つ)が流行った時に池田氏も楽しんだ。

  ・上の句575と下の句77を2人以上の人が参加して読み続ける、即興的な和歌のお楽しみ会(連歌会)であり、長い場合は

   100句位続いた。連歌の師匠と書記が同席する。

  ・連歌会は酒食を共にする親交と情報交換の場であった。

  ・連歌師という職業があり、自ら歌を詠み、人々に和歌の教養を伝え、連歌会の審判にもなる。

  ・連歌師では京都から池田に来た「牡丹花肖(ぼたんげしょう)(はく)」が有名。

  ・池田氏では名前の1字目に「正」が付く一派は(正棟正繁など)連歌好きと言われている。

   

   ※連歌(れんが)………日本の古来に普及した伝統的な詩形の一種。575の発句と77の脇句の長短句を交互に複数人で連ねて詠んで

         一つの歌にしていく。奈良時代に原型ができ、平安時代半ばに長短2句を唱和する短連歌が流行して、やがて連ねて

         長く読まれる長連歌になり、鎌倉時代初期に50100120句と連ね、同後期に100句を基本型とする形式の百韻

         が主流となる。

 

(しょう)(はく)……生没14431527年、室町時代中期の連歌師、歌人。号は「夢庵・牡丹花・弄花軒(ろうかけん)」など。歌集・句集   

      に春夢草(しゅんむそう)」がある。1513年頃池田長正が城主の時に池田を訪れ、大広寺後園の泉福院に来棲し

      た。1518年に和泉国堺に移り没した。池田一門の連歌流行をもたらしたため、連歌の達人と呼ばれた。

 

 大広寺(たいこうじ)……大阪府池田市綾羽にある曹洞宗の仏教寺院で山号は塩増山、尊は釈迦如来。代々池田城主の池田氏の墓があるな

      ど、古くから池田氏との関係は密接。1395池田城主池田充正が創建し、後に天巌禅師が開基したと伝わる。

      牡丹の名所。